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2019年1月25日金曜日

プラートのフィリッポ・リッピ

フィリッポ・リッピによって初めて女性が生きたものとなった。

Filippo Lippi

みたいなことがよく言われる。正直私はそこまで思わないけれど「好きこそ物の上手なれ」で、誰より女好きで、素晴らしい画家としての才能に恵まれたリッピが女性を生き生きと描けたのは当然だと思う。


ルネサンスの巨匠の内、人気の点では圧倒的と思われるボッティチェッリ、でもサンドロ(彼はボッティチェッリと呼ばれたことはなかった)はフィリッポ・リッピがいなければあんな絵は描けなかったかもしれない。ラッファエッロとペルジーノよりも、より彼らの方が深い関係にある。


サンドロはフィリッポの息子(修道女を誘拐してできたと言われるフィリッピーノ=本当は父と同名フィリッポ)を、リッピの死後引き取って育てた。フィリッポ・リッピ、サンドロ・ボッティチェッリ、フィリッピーノ・リッピと言う三人の画家の作風は、フィレンツェには珍しく、彫刻的と言うより絵画的、本質重視というより装飾的だ。マザッチョやデル・サルト、ミケランジェロとは全く違う。


リッピは1452年にプラートから街の最も重要な作品の発注を受ける。画家として脂の乗り切った46歳。ヴァザーリも書いているけれど、彼の最高傑作であり、美術史家の間でもそういうことになっている。


洗礼者ヨハネと聖ステファノの生涯を描いたこの礼拝堂フレスコは、少なくとも彼の全作品中最大の作品であることに間違いはない。フィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラにギルランダイオ描く礼拝堂を思い出す。


リッピの作品はずっと優雅で優しく、フィレンツェの礼拝堂に見る古代ローマ風の荘重な印象は無い。何よりも線の美しさが際立ち、彼の最大の弟子サンドロ・ボッティチェッリにしっかり受け継がれていることは、私たちの喜びだ。


決まり文句のようにマザッチョの影響を受けたと言われるが、画風は全く正反対。確かに初期の作品はゴシック風でぎこちなく、後に三次元的、立体的な表現になるけれど、誰だって最初はぎこちないし、次第に空間が表現できるようになったというのは自然だと思う。もちろんマザッチョの絵は見ているし、そこから立体感を出すインスピレーションを受けたに違いない。でも最後のスポレートの作品は、およそマザッチョの装飾性を徹底的に排した作品とは大違いで、むしろ象徴的で装飾的、そういう意味でゴシック的なところが最大の魅力となっている。


私は自分が絵を描くので、デッサンの才能は天賦のものだと信じている。専門学校や美大時代、いつもデッサンは中の上位だったのに平面構成(色彩と構図)は常に上位だった。デッサンがトップじゃないから画家の道は諦めたと言える。もちろん訓練である程度は描けるようになるけれど、リッピには天賦の才能があった。でもリッピの魅力はミケランジェロやデル・サルトのような完璧な素描ではなく、色彩や構図、要するに装飾的な部分に多くを追っている。だからマザッチョの名前を無理やり出すのは、筋違いに感じられる。


プラートには彼の作品がたくさんある。美術史や画集には収められていないような小品は、気さくでどこか可笑しかったりさえする。上の祭壇画はプラートでは有名な物。よく見れば少し前に紹介した「プラートの商人」の本の表紙に使われている家族が手前にいるのがわかるだろう。孤児からアヴィニヨンの教皇庁で大成功し、国際的な商人となって故郷に帰国したフランチェスコ・ダティーニと彼の家族が、聖ステファノと洗礼者ヨハネに聖母子へのとりなしをしてもらっている。リッピはプラートで12年も仕事をしたし、何と言ってもそこで妻と子供を得た。裁判沙汰にはなったけれど。

Filippino Lippi

後に息子はサンドロの最大の弟子、協力者、そして一流の画家となった。息子フィリッピーノの作品も大好きだから、上の天使たちはいつも私の本棚で祈っている。父親譲りの甘美で優しい表情で。


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