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2019年1月28日月曜日

2019年イタリアの旅:ロンバルディア州ヴィジェーヴァノ

一体なんなんだっこの写真はって思うでしょ?世界で最も醜い靴だって。(ちなみにこの作家は靴だろうがなんだろうがとにかくタコを作る人です)ヴィジェーヴァノの靴博物館にあるそうです。絶対行くっ!


これは「マグリットに捧ぐ」ってタイトルの靴。美術好きなら一目で分かるよね。こんなのばっかり集めてるわけはなくて、ちゃんと歴史を追ったり、世界の靴(日本の下駄もある)を集めたりもしている。


今年の旅で私が唯一行ったことが無いのがヴィジェーヴァノです。ヴィジェーヴァノって日本語で検索するとひたすら靴ばかり出てくる。なぜかっていうとヴィジェーヴァノは世界初の靴工場ができた場所だからです。街のことが知りたければ州名も必要。といっても日本語では極僅かな情報しかないけどね。

Alexsander MacQueen

とにかくさすがイタリアの異常にかっこいい靴が目白押し!こんな中世騎士道物語みたいな靴は、さすがにもう無理でも(昔なら買ったと思う)何が何でも買って帰ります。理由は全く違いますが去年に引き続き、また何足もの靴を手荷物カバンに入れての旅となりそうです。


靴だって美術のうちだから私の美術の旅にぴったりです。しかもその博物館はこの街の唯一のメイン建造物公爵の館内にあるから、建築、美術と共に楽しめちゃう。


ほんとにビックルするほど整った広場は、よく見ると中世の建造物を基本として、最も派手な聖堂ファサード(写真奥)はバロック時代のもので、かなり異なった時代の混合物です。こう言ったことはイタリアでは一年中あることですが、ここでは様々な時代の継ぎ接ぎが見事に解消され、完全に統一感ある一つの舞台となっています。

Torre del Bramante

広場の向こうに聳えるのはルネサンス建築の父ブラマンテの塔です。塔からは街が一望できます。スカイツリーなんか登ったってちっとも綺麗じゃないけど(高いっ!地上からも金額も、って思うだけだった)ここからは美しいのが想像に難くないと思いませんか。

San Giorgio

街にはそんなに聖堂はないようですが、私は特にこの11世紀に建立された聖ジョルジョに行ってみたいです。普通の家にギュウギュウ詰め寄られて可哀想になります。きっと誰も行かないだろうから、ゆっくりと僅かに残ったフレスコなど撮影できるでしょう。


この中世のお祭りは10月14日!残念っ!私の帰国は10月4日です。

San Pietro Martile

この街の聖人は1470年に上の殉教者聖ペテロで暮らしたマッテーオ・カッレリで御遺体はここに眠っています。外はゴシックですが中は15世紀らしい作りでなかなか豪華で、現在も活動が盛んなようです。


きっと宿もこの広場のすぐ近くだろうから夜までここで過ごしたい。この広場に合うような素敵なワンピース、どれにしようか・・

2019年1月26日土曜日

2019年イタリアの旅:ロンバルディーア州パヴィーア

パヴィーアは西洋史を勉強する者には、絶対見逃せない重要な街。古代ローマ帝国の首都で、キリスト教世界全体の首都ローマにはかなわないけど、その次の次くらい(?)に重要な街の一つで、特に初期中世には必須の街。

イタリア王の冠(今はモンツァにある。ゴロゴロ宝石!)

で、歴史の変遷がすごく重要なんだけど書くのは面倒だなーと思ったら、ウィキに記述があったからそれを見てください。「パヴィーア」で検索、もしくは以下。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%82%A2

読んでもらえばわかる通り、象に乗ってやって来たカルタゴの将軍ハンニバル、「哲学の慰め」の著者で高潔なボエティウス、キリスト教父で絶大な影響力のあったアフリカ出身の聖アウグスティヌス、ビザンチン帝国(東ローマ帝国)史上最高の将軍ベルサリウス、騎士道物語の英雄シャルルマーニュ、英雄的な戦いと信仰で名高いランゴバルド王リュートプランド、ダンテが「神曲」に描き、ドイツの神聖ローマ皇帝赤髭バルバロッサが戴冠し、西洋史上初の下克上ロンバルディア同盟、ヴスコンティ家とスフォルツァ家の陰謀・・・とまるで中世西洋史を読んでるみたいな街なのだ!

Basilica di San Michele Maggiore, Pavia

私は街と聖堂についてちょっと書きます。この大天使ミカエルに捧げられた大聖堂(バジリカ)は元は7世紀初頭に建立されたんだけど、イスラム教徒に襲われたり、度重なる戦いで焼け落ちたり散々な目にあって、現在の写真は12世紀のファサード。ランゴバルド芸術(ロンバルディーアってランゴバルド人の地って意味)の最高傑作としてイタリア美術の本には必ず出てる聖堂です。ランゴバルド人はゲルマン人の大移動って教科書で習った人々の一派で、北方から南のパラダイスを夢見て襲って来た人たち。ギリシャやローマの完成された美しい芸術とは全く違った、平面的で幼児絵画みたいな、時にケルトを思わせる美術が印象的です。私は大好き💖

capitello

フランスロマネスクにも多少共通するところがある。この野蛮人たち(地中海の人々にはそう思われた)は戦士だったので、キリスト教化されたら戦いの守護聖人である大天使ミカエルが大好きになり、あちこちに作りまくりパヴィーアにも4つはあったのに、今は一つが残るのみ。パヴィーアでたった一箇所選べと言われたら、迷わずサン・ミケーレ・マッジョーレを選びます。ここで初めてのイタリア王や神聖ローマ皇帝バルバロッサも戴冠したのでした。(戴冠の王冠は最初の写真。宝石が今もすっかり残っている!王冠はイエスの磔刑の時の釘で繋がれているんだって!!釘を聖遺物にしている所もあるけどそれは無視。ちなみにパヴィーアじゃないけどナポレオンも二度目の戴冠をこの王冠でやった。イタリア王=ローマ皇帝=全世界の王っていう構図がヨーロッパには根強かった。)

San Teodoro, Pavia

一瞬同じじゃないかと思うほど似ているのが地元の聖人テオドーロ教会。一回バラ窓にしたのを元に戻した跡が痛々しい。流行に負けたんだね。1117年に建立。中は凄くて、初めて行った私は凄く感動したんだけど、当時はまだ修道会のことがよく分かっていなくて修道士を不愉快にさせたのを今でも覚えています。修道服が似ていたので別の修道会と間違えちゃったのだ。

Bernardino Lanzani 1522

この聖堂には見るべき作品がたくさんあって、中でも特異なのは二つのパヴィーアの都市景観俯瞰図。これは実に正確に描写されていて、ルネサンス頃がどんな姿だったか一目瞭然。

San Pietro Ciel d'Oro, Pavia

三つのランゴバルド聖堂の最後を飾るのは「金の天の聖ペテロ」聖堂。イスラム教徒に略奪されて今は違うけれど、昔は天井が金ぴかだった。

聖アウグスティヌスのお墓

このサン・ピエトロ・チェルドーロ聖堂にはボエティウス、アウグスティヌス、リュートプランドら、歴史上の大人物たちが埋葬されている。アウグスティヌスなんかサルデーニャに眠っていたのを、異教徒に汚されるのを恐れた王が必死に運んで来た。実は自分が一緒に眠りたかったのかもね。ダンテが「神曲」でここの話をしている。

Santa Maria del Carmine

北イタリア全域で見られる赤煉瓦作りに、ピナクル(尖った飾り)がついた典型的なロンバルディーア様式の聖堂は、中世初期に作られた上の三つの聖堂と違い1370年の建立で大した改変を被っていない。落ち着いたイタリアのゴシック様式がいい感じ。

navata, San Teodoro

この他にルネサンス建築の祖と言われるブラマンテの手によるカネパノーヴァの聖母聖堂や司教座聖堂も当然ある。今から行きたくてウズウズする。

palazzo Visconteo

聖堂の他にヴィスコンティ城もある。要塞とは名ばかりで巨大な御屋敷です。ミラーノのスフォルツァ城を思い出さずにはいられない。ここでミラノの当主の座を争った人々の暗躍があったのが「ロレンツォ・デ・メディチ暗殺」(マルチェッロ・シモネッタ著)に生々しく描かれています。ルネサンス君主たちが、いかに一年中命の危険にさらされていたか。暗号で書かれた手紙が証明しています。この本は暗号をある程度解読したということで、非常に話題になった本で欧米では出版後すぐテレビで取り上げられました。

Patinir

私が訪れた時は、例によって全く人が居なくて、近世の絵画あたりを見張ってるボランティアの人たちがめっちゃくちゃ暇そうにしていました。今は当時より世界中観光化が進んだから、お客さんはいるんでしょうか?だだっ広くて歩くのも大変だったけど、こういう時だけ根性が出て全部歩き倒しました。

Certosa di Pavia

最後に忘れてならないのは、街からは少し離れた場所にポツンと立っている(といっても今は観光バスが止まる)パヴィーアのカルトジオ会の大修道院があります。ミラノの君主の座に座ったスフォルツァ家のイル・モーロと彼の妻の石棺を守るため信じ難い豪華な修道院になりました。ミラノの司教座聖堂と同じ建築家たちが後に手がけたので、ミラノの聖堂が改善され、ずっと明るく華やかな聖堂となっています。ミラーノからここだけ訪れる観光客は沢山いて、カルトジオ会の修道士の後をついて見学します。そんな大人気の修道院聖堂ですが、ここに入りたかったイル・モーロ自身はフランスで囚われの身で死に、石棺は空のままです。

 Certosa di pavia

ミラーノから直行バスも出てるので行くかどうかは後で決めよう。

Crocifissione

大好きな街の一つパヴィーアに久しぶりで行こうと書いていたら、今ミラーノの友人から連絡が来ました。絶対歓待してくれます。楽しみに!


2019年1月25日金曜日

プラートのフィリッポ・リッピ

フィリッポ・リッピによって初めて女性が生きたものとなった。

Filippo Lippi

みたいなことがよく言われる。正直私はそこまで思わないけれど「好きこそ物の上手なれ」で、誰より女好きで、素晴らしい画家としての才能に恵まれたリッピが女性を生き生きと描けたのは当然だと思う。


ルネサンスの巨匠の内、人気の点では圧倒的と思われるボッティチェッリ、でもサンドロ(彼はボッティチェッリと呼ばれたことはなかった)はフィリッポ・リッピがいなければあんな絵は描けなかったかもしれない。ラッファエッロとペルジーノよりも、より彼らの方が深い関係にある。


サンドロはフィリッポの息子(修道女を誘拐してできたと言われるフィリッピーノ=本当は父と同名フィリッポ)を、リッピの死後引き取って育てた。フィリッポ・リッピ、サンドロ・ボッティチェッリ、フィリッピーノ・リッピと言う三人の画家の作風は、フィレンツェには珍しく、彫刻的と言うより絵画的、本質重視というより装飾的だ。マザッチョやデル・サルト、ミケランジェロとは全く違う。


リッピは1452年にプラートから街の最も重要な作品の発注を受ける。画家として脂の乗り切った46歳。ヴァザーリも書いているけれど、彼の最高傑作であり、美術史家の間でもそういうことになっている。


洗礼者ヨハネと聖ステファノの生涯を描いたこの礼拝堂フレスコは、少なくとも彼の全作品中最大の作品であることに間違いはない。フィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラにギルランダイオ描く礼拝堂を思い出す。


リッピの作品はずっと優雅で優しく、フィレンツェの礼拝堂に見る古代ローマ風の荘重な印象は無い。何よりも線の美しさが際立ち、彼の最大の弟子サンドロ・ボッティチェッリにしっかり受け継がれていることは、私たちの喜びだ。


決まり文句のようにマザッチョの影響を受けたと言われるが、画風は全く正反対。確かに初期の作品はゴシック風でぎこちなく、後に三次元的、立体的な表現になるけれど、誰だって最初はぎこちないし、次第に空間が表現できるようになったというのは自然だと思う。もちろんマザッチョの絵は見ているし、そこから立体感を出すインスピレーションを受けたに違いない。でも最後のスポレートの作品は、およそマザッチョの装飾性を徹底的に排した作品とは大違いで、むしろ象徴的で装飾的、そういう意味でゴシック的なところが最大の魅力となっている。


私は自分が絵を描くので、デッサンの才能は天賦のものだと信じている。専門学校や美大時代、いつもデッサンは中の上位だったのに平面構成(色彩と構図)は常に上位だった。デッサンがトップじゃないから画家の道は諦めたと言える。もちろん訓練である程度は描けるようになるけれど、リッピには天賦の才能があった。でもリッピの魅力はミケランジェロやデル・サルトのような完璧な素描ではなく、色彩や構図、要するに装飾的な部分に多くを追っている。だからマザッチョの名前を無理やり出すのは、筋違いに感じられる。


プラートには彼の作品がたくさんある。美術史や画集には収められていないような小品は、気さくでどこか可笑しかったりさえする。上の祭壇画はプラートでは有名な物。よく見れば少し前に紹介した「プラートの商人」の本の表紙に使われている家族が手前にいるのがわかるだろう。孤児からアヴィニヨンの教皇庁で大成功し、国際的な商人となって故郷に帰国したフランチェスコ・ダティーニと彼の家族が、聖ステファノと洗礼者ヨハネに聖母子へのとりなしをしてもらっている。リッピはプラートで12年も仕事をしたし、何と言ってもそこで妻と子供を得た。裁判沙汰にはなったけれど。

Filippino Lippi

後に息子はサンドロの最大の弟子、協力者、そして一流の画家となった。息子フィリッピーノの作品も大好きだから、上の天使たちはいつも私の本棚で祈っている。父親譲りの甘美で優しい表情で。


2019年イタリアの旅:トスカーナ州ピストイア

私はもうすっかりプラートにしようと思ったら、以外にピストイアに興味があるそうなのでピストイアも紹介するね。

Battistero, Pistoia

ピストイアもトスカーナの街。電車でミラーノを出発したらフィレンツェで乗り換えて2時間42分。プラートとはお隣さん。その先にルッカがある。

Mura, Pistoia

やっぱり駅から歩いて行ける距離だけどちょっと離れたところに歴史中央地区がある。駅を降りたらお店が並ぶ普通に現代イタリアの街並みを抜けていくと、中世の市壁(城壁って書いてあるのは厳密には間違い。城壁っていうのは封建領主のお城を取り囲んでるものを指すけど、これは自治都市を囲んでる壁なので市壁。歴史的意義を考えるとかなり重要なこと。)跡が現れ、いきなりワクワクする。いよいよだ!でも思った程中世っぽくないなと思いながら進む。


駅から歴史地区へ向かう現代的なお店の並ぶ通りに、毎週立つ市場で出会った子達。正直言って、若い頃は安い事が今よりありがたかったからこういう場所でよく買ったけど質の良い物は置いてないので、もう何年も屋台では買ってない。基本イタリア製じゃないし。

Palazzo della cassa di risparmio

いよいよ歴史中央広場に近づくと立派な後期ルネサンス様式の建物が現れる。手入れも行き届きとても綺麗。「預金館」いわゆる銀行です。かっこいー💓

Duomo, Pistoia

前の記事に写真を載せたけどピストイアの中央広場はガラ〜んと凄く大きい。勿論もっと大きい広場は一杯あるけど、建造物の配置かな、街の規模に比較してだだっ広いので、イベントや市場などここで何でもやる。清掃車が後片付けをする様子を眺めていたのを覚えてる。とにかく司教座聖堂や市庁舎など一番重要な建造物は皆ここに集中している。


S.Giovanni Fuorcivitas

実際にはルネサンスや現代の建物もあるんだけど、ピストイアの街を印象付けているのは多分「街の外の聖ヨハネ」聖堂や洗礼堂など、白黒の横縞と幾何学模様が整然と並ぶロマネスク〜ゴシック期の建造物。これはプラート、ルッカなどトスカーナの主に北部に共通するデザインで、私は間接的にジェノヴァと関係があると思ってる。残念なことに中はほとんど残っていない。

Ospedale del Ceppo, Pistoia

ルネサンス美術など勉強している者にとって外せないのは、離れたところにある病院で、フィレンツェから世界に陶芸術を広めたデッラ・ロッビア家のジョヴァンニが製作したフリーズが素晴らしい。間違いなく一家の祖、ルーカのフィレンツェにある捨子救貧院を意識したもの。

San Bartolomeo,Pistoia

他にも以前はかなり魅力的だったろうと思われるロマネスク聖堂などいくつかあるけれど、ほとんど中は何もない状態で、その後の街の衰退を感じさせる。ボロボロの中世由来の建造物があちこちに残っていて、逆にそれが雰囲気を出しているけれど。

Negozio, Pistoia

博物館は、前にも書いたけど中世から近世の作品を集めたイタリア的な内容で、以前は独り占めして観たけど、今は人はいるのかな?プラートやルッカ、当然ピサやフィレンツェには対抗できない内容だから仕方ないかも。独自のところでは「ルイージ・トロンチ楽器と打楽器の博物館」というのがあって、お店も本格的なのがあったので写真に撮った。

そーだなー。どの街も素敵だから捨て難い。美術好きならプラート、町歩きならピストイアが良いかな。

2019年1月23日水曜日

2019年イタリア美術の旅:トスカーナ州プラート

トスカーナの旅で最初に訪問するのはピストイアかプラートです。
みんなが行きたい方でいいんだけど、よく分からないというのでプラートを紹介します。

Cattedrale, Prato

プラートはミラーノから電車で、フィレンツェで乗り換え2時間20分ほどにあります。イタリアの中世都市はほとんどがそうですが、駅と町は離れていますが歩けない距離ではありません。


これもイタリアの多くの都市と同じで源は大変古く、旧石器時代から村の痕跡があります。ですが私にとってプラートといえばそれは「プラートの商人」の街です。


この本は中世史に興味のある者なら誰でも絶賛するに違いない貴重な本なので、この本の売れない時代に日本でも8出版社が共同で再販するほど素晴らしいものです。私は初版が出た時夢中で読みました。これは表紙にあるフランチェスコ・ダティーニという14世紀の商人が残したメモ(覚書という)や手紙、請求書や契約書などから当時の生活を生き生きと再現したもので、実に詳細で説得力があります。


写真はフランスで大成功を収めたフランチェスコが故郷に錦を飾るために建てた家です。今見れば、観光の対象になるとは思えないでしょうが、14世紀というルネサンスの入り口の時代に、王侯貴族でもない者(しかも彼は幼くして黒死病で両親を失い、孤児でした!)の家とは信じ難い巨大で豪華なものでした。ここにはこの本の種となったダティーニ文書と呼ばれるものが保存されています。


町の真ん中には彼の記念碑もあります。絶対に知らない人なら、王様か学者と思いますがウルトラけち臭い商人です。中庭に花を植えたフランチェスコは後で後悔します。食物になる実のなる木を植えるべきだった、花なんて無駄なものを植えて貴族の真似をして馬鹿だった、と。この広場は落ち着いた良い広場で、書店があった(今は知らない)ので私は「プラートの商人」のイタリア語版オリジナルを買おうとしましたが、品切れで入荷を持っているところだと言われ非常に残念に思ったのを覚えています。でもその書店はカフェと一体となった素敵な本屋で、様々な本を物色しながらカフェを飲んで癒されました。当時、日本には未だこういうお店はありませんでした。

Castello di Federico 2

なので私にとってはフランチェスコ・ダティーニとフィリッポ・リッピの街ですが、冷静に見れば、フリードリッヒ二世の要塞(今は野外コンサートなど行われる)とかフィレンツェ・ルネサンス3代創始者の一人ドナテッロ(後はブルネッレスキとマザッチョ)が作った司教座聖堂の角に取り付けられた、有名な「聖母マリアの腹帯顕示台」とか、今ではイタリアにおける中国文化の一大中心地とか、色々あります。

Donatello

これは本当に有名なものです。誰でも、整然とした美しい司教座聖堂のファサードにいきなりくっついたこれは何?と思うでしょう。聖遺物は中世において現在の我々には全く想像できない重要なものでした。何よりも奇跡を行う力があるのですが、聖遺物にも人気とか奇跡度が高いとか、色々あります。最高の聖遺物になるはずだった、イエス・キリストと聖母マリアは昇天してしまったので御聖体がありません。が、ここプラートには聖母が昇天する時に使徒たちへ向けて、はらはらと落としてくれたイエスを孕んだ時の腹帯があるのです。マリアは何十年も腹帯を持ち歩いていたのでしょうか、とかそういうことはどうでもいいことです。そして普段はもったいつけてしまいこまれている腹帯が年に一度、御披露となります。これはそのための台なのです。ここから、はらりっとします。当然ですが、本物のドナテッロ作品は博物館に保存されています。

Museo del Tessuto,Prato

聖遺物が布だというのも何か象徴的です。1950年代からプラートは繊維工場の労働者を増やすために、外国人労働者に頼るようになります。最初は南部イタリア人だったのが次第に中国人になり、今では中国系イタリア人最大の街になりました。我が国の政治家も真面目に将来を考えるべきです。で、とにかく繊維博物館があります。いろんな時代の豪華なファッションも見れるし、行ってみたいです。

考古学系の博物館は、イタリアのある程度の街ならどこにでもあります。私が好きなのは当然中世美術を中心に集めている「法務裁判官の館」とか元聖ドメニコ修道院の絵画館、司教座聖堂博物館などです。

Museo di Palazzo Pretorio,Prato

時間がなかったら普通はここを訪れます。中世には行政の中心だった建物です。

Museo di Pittura Murale in San Domenico, Prato

初めて訪ねた時にはこの修道院が最も印象的でした。フィリッポ・リッピの初期のヘッタクソな絵とかがあって、誰もいない絵画館で笑いながら回ったのを覚えています。(おかしい人と思われたかな?)一泊しかできないのが残念です。もしみんながモンテカティーニテルメに行かなくてもいいというなら、ここに2泊して町中の博物館に入りたいです。13個もある上、聖堂があります。

il Turista.infoから写真を拝借

フリードリッヒ二世の要塞の右に見えるのはブルネッレスキの聖堂です。美術好きの人、特に建築好きの人なら一目瞭然ですが、ミラノの聖母マリアS.M.della Grazie(レオナルドの最後の審判しか興味のない人もいますが・・・)やフィレンツェのパッツィ家礼拝堂などとそっくりの、彼らしい集中構造の聖堂です。


このようにイタリアの特にトスカーナの中世都市は非常に豊かで、街の規模に対して見るべきものが物凄くあります。美術史や歴史の勉強をしていれば喜びは何倍にも増すでしょう。今から世界史、イタリア紙、中世史や西洋美術史など読んでおくことをお勧めします。


さらに市壁で覆われていた痕跡があちこちにあり、門や橋も残っています。プラートは平野ですが、川の水が澄んでいたからこそ、世界的な織物の町として発展できたのだし、聖母の腹帯を一目見たいと大勢の巡礼がこの橋を渡ったのです。

やっぱり1日じゃもったいないね。でもそんなこと言ってるとほんと動けなくなるから、急ぎすぎず、でも多くを見られるような旅を目指します。ローマ人やルネサンス人のように、バランスが大切でしょうか。