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2018年1月14日日曜日

モンテカッシーノ:西洋修道院制度の総本山

宗教とは何か?私は常に考えてきました。最終的な答えは出ないでしょうが、不合理で不確実な現世において、人間が理想とするものの一つの解答だと思います。理想は個々人に違いはあるものの、乱暴に言ってしまえば、それは心の平安を意味します。そういう意味では、何教だって構わないという人がいますし、確かにそういう面はあると思います。ただ、八百万の神のように、植物と人間に差をつけないどころか、野球や麻雀の神様までいる日本と、アブラハムの子孫(ユダヤ、キリスト、イスラム教)との間には、やはり大きな違いがあります。年末に聖書を題材にした映画を何本も観ました。「エクソダス」(脱出という意味で、モーゼが、エジプトの奴隷状態からユダヤの民を解放する「出エジプト記」をテーマにした映画)など観ながら、モーゼでなくともなぜこんなに神は残酷なのかと問いたくなります。ゲームで驚異の世界観を打ち出した「アサシンクリード」の映画も再見。どちらも、とにかく戦うのです。戦いこそ、人間の生きる意味のようにさえ思えます。


Monte Cassino

写真はモンテカッシーノの丘に作られた戦没者のお墓です。白く見えている部分は近くから見ると次の写真のように、墓碑なのです。歴史を振り返れば、戦争が無かった時代や地域の方がむしろ珍しいほどで、第二次世界大戦以降の日本は世界史上稀に見る、平穏な時期を過ごしてきたわけですが、それを破壊しようとする人々が増えてきました。非常に悲しいことです。


お墓の奥の丘を見て下さい。頂上に建物があります。あれが西洋修道制の総本山であったモンテカッシーノ大修道院です。


1944年の写真です。モンテカッシーノは大戦の最前線となり、集中攻撃を受けた麓の町は完全に燃え尽き、大修道院もほとんど破壊されました。


これはまさに爆撃を受けている最中の写真です。戦争カメラマンのおかげで、私たちは歴史の真実を知ることができます。


1249年の大修道院の説明図です。ウンベルト・エーコの「薔薇の名前」はじめ、多くの作品にインスピレーションを与えてきた、西洋修道院は、あらゆる学問の殿堂でした。大図書館であり、技術革新の研究室であったのです。その麓には大修道院と関連を持って働く人々の村がありました。この建造物自体が素晴らしい芸術作品でした。


聖ベネディクトゥス(ベネデット)がローマのスビアコから引っ越して来たのは6世紀です。それから中世盛期には図のように繁栄を極め、様々な逆境に遭いながらも復活し、その後も1944年まで積み上げて来たものが、一瞬で粉微塵になりました。私は、どんな時にも戦争に反対の立場です。あらゆる状況で、戦争を回避する方法を探るべきだと思います。


写真は現在の修道院です。モンテカッシーノ大修道院がナポレオンはじめ、何度も襲撃されたり破壊されたりした理由は、勿論その影響力もありましたが、戦略的に重要な場所にあったことが挙げられます。そのため第二次世界大戦のドイツ軍の防衛戦のど真ん中になってしまったため、ここにドイツ軍が居ると思った連合軍(イギリス・アメリカなど)が写真のように大爆撃を行なったのです。戦争につきものの誤爆です。廃墟となった修道院を巡って熾烈な戦いが続きますが、これには日系アメリカ人が多数投入され戦死しました。写真のお墓に眠っています。


現在の修道院は17世紀の当時に似せて、再建されました。ローカル電車でモンテカッシーノ駅で降り、てくてくてくてくてくてく歩いて丘の上の修道院にたどり着いた時は、大変感動しました。ルネサンスと新古典様式の入り混ざった、白い建物は、大階段で回廊へ入り、さらに登って聖堂へ向かいます。空は広く、遮るものはありません。


サイズは大きくても清楚な印象を与える外観と正反対に、中は17世紀の雰囲気で、豪華そのものです。戦後の貧しい中よくぞここまで作り直したと、ヨーロッパの人々の、過去の文化に対する誇りを感じます。


フレスコなど現代の画家の手も入っていて、全壊させられたのだからしかたないとも思いますが、現代風の作風も否定されていないところがカトリックの懐の深さを感じます。


まるでラヴェンナのガッラプラチーディアのようですが、ここはクリプタ(地下聖堂)への通路です。


思ってもいなかった光景に意表を突かれます。エジプトを思わせる二次元的で装飾的な聖人や天使、文字がモザイクで表されとても綺麗です。金属の仕切りのデザインもアール・ヌーヴォー調というか、全体的に東方的な印象です。


帽子に盾は、高位聖職者を表す時の定番です。よく見ると平たい、赤いタッセルがたくさんついた帽子が見えますが、それは初期の司教たちの被り物です。三重冠は教皇の印。


イタリアの大聖堂には当然のごとくある、博物館もあります。世界一を誇った古代世界の写本など極めて貴重な宝は、ドイツ軍と連合軍の本格的な戦いが始まる直前にヴァチカンに移されていたことが、唯一の救いです。多くはヴァチカン博物館に残されましたが、ここに戻されたものもあり、聖具や芸術品に加え、大戦の時の記録となる品々(時には戦車とか)も展示されることがあります。



モンテカッシーノは、人間とは何かを様々な面から考えさせられる歴史の複雑さ、景観を伴った素晴らしい聖堂を訪ねる愉しさ、歴史書を読めば必ず出る重要な場所を知る喜び、を全て与えてくれる場所です。ロマネスクやルネサンスなど、ある特定の時代に想いを馳せるのではなく、6世紀から現代までが対象でもあります。

旅について:モンテカッシーノはイタリア半島の中央の孤立した場所にあります。ローマからもナポリからも離れた場所ですが、モリーゼのイゼルニアからそれほど離れていないので、モリーゼを旅するならば、ぜひ最初か最後にみんなを連れていけたら嬉しいです。


2018年1月11日木曜日

モリーゼ:困難を乗り越えて手にする歓び

「イタリア歴史と美術の旅2018」について:モリーゼに行ってみたいという私の希望から、今度の旅の参加希望者は悩まされていると思います。イタリアに何度か行ったことのある人でも、なかなか思いつかない場所だから。

San Giorgio, Petrella Tifernina

イタリア中旅している私の、唯一残した州なんだから当たり前です。これに付き合ってくれるという人がどのくらいいるのか分かりませんが、私の旅はいつも、少人数精鋭!の旅ですから一応提案してみようと思ってやっています。池田健二著「イタリア・ロマネスクの旅」(中公新書)に掲載されている聖堂に、ペトレッラ・ティフェルニーナが載っています。アブルッツォ地方の中に入れられていますが。その165ページに「ペトレッラ・ティフェルニーナのサン・ジョルジョはイタリアで最も訪れにくいロマネスク教会かもしれない。・・・そうであるがゆえに教会への想いはつのる。到達するのが困難であればあるほど、その前に立つ時の歓びも大きいのである。」とあります。


当然ですが、様々な捉え方や解釈があるし、感覚的な問題になれば全く違った印象を持つことも少なくありません。私はこの本に出てくるほとんどの聖堂へ行っていますが、書いてあることと違った意見を持っている箇所もあります。でもきちんとした本で、何より珍しい情報ですし、カラー写真図版で非常に親しみやすい(内容はどうかわからない)と思うので、是非書店で手に取ってみてください。

  
Pietracupa


Sant'Antonio Abate



3枚とも同じ聖堂のものです。ピエトラクーパの大修道院長聖アントニオは、孤高の隠修士のこもった洞穴聖堂が多数残るモリーゼ全体の中で、一番有名で大きく、現在も祈りに使用されている聖堂です。一番下の写真を見ると、マテーラでもそうですが、南イタリアのこの周辺には、こういった洞窟聖堂が様々な形で沢山あるのが分かります。聖堂内の写真がまた感動的です。キリスト教の儀式は時代とともに変化し、儀式のやり方に伴い、聖堂建築自体が変化しました。だから円系の聖堂は初期キリスト教時代のローマなど、数えるほどしかありません。

西洋修道制の父は聖ベネディクトですが、大修道院長聖アントニオはキリスト教修道制の創始者の一人で、砂漠で一人修行しながら、様々な欲望と戦った話は有名で、ボッシュやブリューゲルらも散々描きました。初期キリスト教世界全体で崇拝された聖人です。



いかにも修行〜って感じの洞窟聖堂がいっぱいです。


聖堂内には、ルネサンスの遠近法や自然主義を知らなかった時代の人々のフレスコがところどころ残っていて、それが可愛くていい味を出しています。当時の人々は可愛いとは思っていなかったと思うのですが。その辺は追求したいところです。


2018年1月10日水曜日

イタリア:美術と歴史の旅2018の集まり

年末からお伝えしている、イタリアの旅に興味を持ってくださった方々で集まる話ですが、今月1月最後の日曜日にしようと思います。それがダメなら最後の土曜日にどこか都心で集まりたいと思います。この二日のうちどっちかに決定。で、そこで必ずどこに行くかみんなで決めます。

サルデーニャ島、バジリカータ、プーリア、カンパーニャ、モリーゼ州のうちのどこかです。今まで紹介してきたところ以外にもたくさん素敵な場所はあるんだけれど、全部はやってらんないから(私はイタリア政府観光局をとっくに超えてしまうので無理ってことで)、2月以降は行く場所の紹介に絞ります。

案1:カンパーニア(ナポリ、アマルフィなど大芸術の旅)
案2:プーリア(アドリア海沿いのロマネスクを巡る旅)
案3:バジリカータ+プーリア(洞窟住居と大都市)
案4:モリーゼ+モンテカッシーノ(未知の村と劇的なベネディクト会総本山)
案5:サルデーニャ(珠玉のロマネスク聖堂と古代の神秘、独自の文化)


Monte Cassino

この内から選んでください。一緒に行く人はよく考えといてね!

参加者には時間と場所を個人的にメールしますので、日にちが迫ったらまた連絡ください。よろしくー(凝りまくって死にそうなSより)

プーリア:大天使ミカエルは洞窟好き

中世の初期にイタリアで暴れまくったロンゴバルド人や後にヨーロッパ全土で猛威を振るったノルマン人は結構あちこちに痕跡を残している。彼らはキリスト教徒になった時に、皆が守護聖人を持っていることを知る。例えば薬や治癒の聖人である聖コスマとダミアーノの双子聖人や、ペストに対する聖セバスティアーノ、最初の殉教聖人ステーファノなどが人気があった。古代ギリシャやローマ人に野蛮人と恐れられたロンゴバルドやノルマンのような北方の人々は、戦士を自認していて戦いが大好きだったから、大天使ミカエルを気に入った。何しろ大天使ミカエルは、大天使ルチーフェロ(ルシファー、光という意味)が神様に反逆して、天国で反乱を起こした時、神側に立って戦った天使軍団の総大将。言うまでもなくルチーフェロと彼に従った天使たちは負けて、堕天使となった。ダンテによれば、彼は今でも地獄に埋まっている。なので大天使ミカエルは悪に対する正義の戦士であって、ロンゴバルド人やノルマン人は自分達に相応しいと思ったのだ。戦ってもいいんだと思ったのかもしれない。


Monte Sant'Angelo

ヨーロッパを超えトルコに至るまで、世界に大天使ミカエルが降りたと言われる聖所がある。一般にはフランスのモン・サン・ミシェルが有名だが、イタリアの方が二つもあるし、歴史もずっと古い。


これは大天使ミカエル好きには知られたことだが、歴史的に古い聖所は驚くほど一直線に並んでいる。アイルランド、イギリスをかすり、かの有名な観光地を通過し、トリーノの郊外の山上、そしてプーリアの洞窟、トルコとなっている。中でもプーリアの洞窟は、大天使ミカエル伝播の火付け役となった場所で、イタリアに上陸したノルマン兵士たちが詣でたことが文献資料に残っている。プーリアのモンテ・サンタンジェロ(大天使の山)へ詣でるために故郷からはるばるやって来て、傭兵として成功し十字軍の英雄となっていく彼らの歴史を思い出す。プーリアの聖所は今でも観光名所となっていて、廃墟のようなロマネスク聖堂が感動的な場所だ。


Santuario di San Michele Arcangelo

私が訪ねた時は夏だったので、強い日差しの映える白い独特の街並みと海が、まるで絵葉書のようだった。世界中から巡礼に来ている人々の団体がいて、聖所に入るには、夏の格好ではダメで、入り口で髪や体を覆う簡易レインコートを貸りていた。私はバチカンで懲りていたので(初めて行った時スカートが短過ぎて入れなかった!)大判のスカーフとか薄手のカーディガンを持ち歩くようにしている。ま、今ではどう考えても当時のスカートは履けないからいいんだけどさ。写真は聖所への入り口で、そこからどんどん降っていくと洞窟聖堂があり、イギリス王室の源になったノルマン人たちの祖先が、感動した場所に出る。


中は違った時代の空間が、ごっちゃになっている。右奥が最も重要な大天使像のある場所で、左は中世に作られた礼拝堂。この他にも一般には入れない空間もある。


ここは、この大天使ミカエルの聖所の周辺にできた、いわば門前町だ。中世のヨーロッパの都市の形成にはこの他に、市が立つ場所にできた街、司教や領主が意図して作った街とかもある。イタリアの場合、北方と違い、古代ギリシャやローマの街が既にあった場合が多いが、ここは違う。6世紀から巡礼が訪れていたという、完全に中世の街だ。上空から見ると、小さな同じ形の家が整然と並ぶ麓の門前町がわかる。丘の頂上に聖所がある。


頂上部分、中世の街の門が見える。この橋を渡って入ると、中世人の気持ちが少しは味わえる。バスを乗り継いで麓の街で降り、丘を登ってここまでたどり着くと周囲には何もなく、ミラノやローマでは考えられない澄み切った空気を実感できる。


丘の上の狭い場所に、中世初期から盛期にかけての聖堂が幾つかある。数世紀にわたって改造されたおかげで、いくつもの聖堂がくっついてしまっているが、建築物はロマネスクならではの単純だが力強い造形だ。一歩中へ踏み込むと、フレスコなど剥げ落ちてしまっていてもクーポラに感動する。ノルマン系のロマネスク聖堂では大抵そうだ。いびつな円が、よく落ちないで何世紀も耐えたものだと、何かけなげな印象を与える。


 Tomba di Rotari

鉄腕と言われたノルマンの英雄ロタールの墓がある、聖堂の浮き彫り。磔刑のイエスが左にひょう〜っと傾いているところが、ヴェローナの青銅扉を思い出させる。他にも、完全な形で残っていた頃をぜひ見て見たかったと、思わせる魅力的な浮き彫りがあちこちにある。


San Pietro e Santa Maria Maggiore

古代ローマに憧れたんだろうなというような、堂々としたロマネスクアーチを積み上げたバジリカの後陣だけが残っている。これだけでも嬉しくなったが、こんなすごいものが、普通の家とくっついて庶民的な音が聞こえてきたりするのも面白い。


旅について:プーリアへ行くならやっぱりプーリアだけにしたい。プーリアには素晴らしい場所がいくらでもあって、日本人には知られていないけれど素敵な場所の宝庫だから。前回はフォッジャの神父(現地で出会った!)宅へ長期滞在していて、あちこち回ったんだけれど、ここへ行った時に一泊してみたいと強く思ったのを覚えている。夕方と明け方の風景がなかなか素敵で、写真家の間では知られているのだ。ここには、冒頭の写真の場所にある、ゴージャスなホテルがあって、アドリア海が見渡せるレストランやバルコニーがある。でも巡礼者なんだから、修道院で怒られるのもいいかなーとか。みんなはどう考えるか、楽しみです。

2018年1月7日日曜日

バジリカータ:古代神殿と中世の要塞

イタリア政府観光局が全然役に立ってくれなくて、だから役所はダメなんだと言いたくなります。資料無さ過ぎ。ネット見難く過ぎ😖


Craco

バジリカータもモリーゼに負けずに日本語資料が僅かしかありません。結局いつものようにイタリア語の資料で調べています。

バジリカータはマテーラがとても特徴があって魅力的なので、他はほとんど知られていませんが、南イタリアの海岸線はマグナグレキア(大ギリシャ)といい、古代ギリシャの植民都市だったので古代の遺物は豊富です。ギリシャ人が来るよりもっと前から人々が暮らしていたところです。


Metapontum

メタポントには古代遺跡が残っていて、当然博物館もあります。初めてイタリアへ行った時、コロッセーオを見ながら、生まれた時からこんなものが身近にあったら、考え方も変わるだろうな、と思ったのをはっきりと覚えています。ここで暮らす人もそうでしょう。こんなものを当たり前のように見て散歩する毎日は、東京の住宅地で暮らすのと全然違うと思わざるを得ない。イタリア留学時代、都会で暮らしたい、田舎は嫌だとペルージャにいた私はいつも思い、東京なら〜なのに、と思ったりしました。品物や情報量がまるで違うからです。今は当時とはネット環境がまるで違い、随分と情報も入手可能になったとはいえ、直に接するのと、ネットで知るのでは大きな差があります。


どこに住んでも完全に理想通りの生活なんてあり得ないし、万一できる人がいたとしても、極一部の人々で私には無関係だから、選ぶしかない。正直、イタリアで生活することもできたと思うけれど、当時は、イタリアで学んだことを生かし、日本で自分に何かできることがあるのではないかと大志を抱いて戻ってきました。私は後悔しない主義なので、ミジンコのようにちっちゃなことでも続けようと思っていますが、続けさせてくれる人のおかげだから、結局自分のためでもあります。とかなんとか、自分の話ばかりしましたが、古代遺跡を見ていると、自分とか、世界とか、大志とかそういった事を自然に考えてしまいます。上の写真、不思議な光景です。イオニア式の柱頭が、土台の上に、柱をすっ飛ばして乗せられています。でもこの変な展示の仕方のおかげで、実際に建っていたら、双眼鏡で見ないと見えないような、模様がはっきり見えます。


このドーリア式にいたっては頭の部分しかありませんが、大きさが手に取るようにわかるのが良いところです。建築に興味のある人や、世界史に興味のある人なら、作った人々の苦労が伝わり、彼らの気持ちを思って、雄大な気持ちになるでしょう。


劇場は古代文明を考える上で非常に重要なものです。だいたい、劇場なんて生きることに必要ないのに、古代都市に必ずあるということが、人間とは何か、文明とは何かを物語っています。写真の右側には、かなり広い遺跡空間が広がっています。私は古代には詳しくなく、通り一片の知識しかありません。だから中世のキリスト教文化を語る時のようには、話せませんが、そっちを話し出すと詳しすぎて止まらないので、風を感じながら古代遺跡に触れるのもたまにはいいかもしれません。


Craco

メタポントからすぐに、クラーコという中世にできた街(村?)がある。写真はそこにある14世紀のアラゴン家の要塞。どんだけ暗殺を恐れてたんだっていう、頑丈さが伝わってくる。びっくりするのは今は個人の所有で住んでるんだって!私も一度でいいからこんなとこに住んで見たいっ!かな?中世の城は、寒い、臭い、汚い、厳しいは当たり前だから、色々と改造して住んでるんだろうね。交渉したら見せてくれるかな。とか考えちゃう。この村には聖堂もあって、ヨーロッパの小さな中世の町って雰囲気をすごく持ってる。


いいでしょ?すごくないですか?クラーコの街の端っこです。ちなみに頭にあげた写真もクラーコです。遠方からかっこいい写真をお借りしました。



Maratea

このブラジルを真似したみたいな、解放者キリスト像はメタポントとは反対側のティレニア海に面した場所にあります。麓の小さな村がいい感じ。

旅について:バジリカータへは、私はマテーラしか行ったことがないし、マテーラも十分に見たって気はしてないから、いつか再訪したいと思ってました。もしバジリカータへ行くなら、プーリアの街と組み合わせたらいいかな。とか考え中。


2018年1月6日土曜日

モリーゼ:最果ての野蛮人の聖堂

野蛮人=バルバリとは古代、ギリシャ人やローマ人が、自分たちよりも文明の遅れた北方の人たちを主に指して使った言葉です。私たち日本人には無関係だから、野蛮人と書くのは本当はおかしな話です。欧米主導当然主義からくる言葉ですから。でも、現在、世界は西欧文明なしには考えられない状態で、特に西洋美術や歴史を勉強する者にとって、バルバリという言葉を知らなければ、話になりません。どの本にも出てくるからね。

さて、イタリアという国は現在の意味で国家となったのは1860~70年にかけてで、非常に新しい国です。しかしイタリア半島の歴史は、ペルシャなどの人類の文明の発祥地ほど古くはないにしろ、ヨーロッパの中では最古を誇り、それが古代ローマやルネサンスを通じて近代につながっているという点で、最も重要だし、複雑で奥深く、芸術的には圧倒的に見るべき価値のあるものが多い魅力的な国です。

Santuario di Castelpetroso

私はイタリア中を旅して回っていますが、20州の中で唯一行っていないのがモリーゼ州です。確かにドナテッロやラッファエッロ、超絶技巧のバロックなどの大芸術を見に行く場所ではありません。写真はゴシック様式の聖堂ですが、ゴシックとは「ゴート人(野蛮人)風」という意味ですから、フィレンツェ・ルネサンスの文化人から見たら全然ダメな聖堂なのですが、現代人のごく普通の感覚からすると、とても美しくはないでしょうか?ゴシックは北方生まれですから、雪に溶け込んで絵のようです。私は、しょっちゅう「絵のようだ」という表現を使いますが、それは美しい風景というような意味です。モリーゼのこの聖堂は実は聖堂ではなくサントゥアーリオ(聖所かな)と言って、いわゆる普通の教会とは違ったものです。多くの場合、そこには御出現(聖母、イエス、聖人らが信徒に現れる)があります。

ゴシックは、野蛮人という言葉とは裏腹に、とても規則的な形を基本に作られています。それに対して、野蛮人と呼ばれたロンゴバルド人は、洗練を極めたギリシャ、ローマの彫刻のふんだんにあるイタリアへやって来て自分たちの聖堂を建てたら、こんなになっちゃいましたーっ!っていうような、最高の聖堂が下の写真です。何を言ってるのか、分からない人は、ま、授業に出てもらうと嬉しいのですが・・。


S.Maria della Strada

この最高のルネッタ(半円形の建築部分で、入り口の上部)は、私の憧れの聖堂のものです。これぞロンゴバルド芸術の力強さ、というか奔放さ、というか下手だとか拙いとか、そんなものは吹き飛ぶ、勢いのある美術です。行きにくい場所に、ポツンと建っていて、ファサード(建築物正面)やところどころに、天然としか言いようのない彫り物がしてあります。見たくてたまりません!イタリア語ですが写真が見られます。

     

ロンゴバルド美術を見ると、いつも思うのですが、もっと上手な人はいなかったのだろうか?と。ロンゴバルド美術にも、もちろん色々あって、チヴィダーレの女性像は、きちんと整っています。あれは後期の作品でゴシック色が感じられますが、なぜか私にはあまり魅力的ではありません。ルッカやベネヴェントには野生的でありながらも、芸術的な線と形態の作品が見受けられます。でもモリーゼの作品はどれも本気で素人臭く、当時の状況を想像したくなります。逆に素人臭い方が民衆の好みや考えは反映されやすいので面白い面もあります。大芸術家というものは常に時代を超越しているので。


もっといっぱいアップしたいのですが、みんなが好きとも限らないし、これでやめますね。髪の毛が額縁の柄になっています。作者は、きっとこの思いつきに満足だったに違いありません。首と体の連結が損なわれているし、足なんかチョコ〜んとしてしまっていますが、これは髪の毛額のアイディアを優先したからだと思います。先に挙げたルネッタといい、中世騎士道時代の好みが伺えて動物が活躍します。なぜって地中海系の古典芸術では、完全な人体を神の似姿と捉えるため、動物は無価値になり無視に近くなってしまうので、古典やルネサンスでは動物は楽しめませんが、ロンゴバルドでは思いっきり楽しめるのです。


San Giorgio Martire

これはまた別の聖堂です。殉教聖人に捧げられたロマネスク聖堂ですが、先に挙げた「路上の聖母マリア」聖堂よりさらに、過激に破天荒になっています。ここではもう動物が主役どころか、人体表現はありません!実はこのルネッタはこの聖堂の中ではまとまった方で、もっと構図も何もあったもんではない、さらに迫力の浮き彫りもあるのです。とても西洋美術とは思えぬ自由さです。きっと昔は他の地域にもあったのが、偉そうな正統派の美術に作り変えられてしまったのかもしれません。こういったヨーロッパ美術の横道から、すっかり道を外れた、愉しい聖堂がここモリーゼにはまだまだ残っています。


San Vincenzo al Volturno

これまた絵のような、大修道院跡。修道院の聖堂のみ極一部が残り、後は遺跡のようになっていて、そこからかつての繁栄ぶりを推し量ることができます。

旅について:もしモリーゼに行きたいと思ってくれる人がいれば、ぜひ行きたいと思います。数人まとまれば車をチャーターできるので。モリーゼの場合はナポリと組み合わせるとかした方がいいかなとも思います。大芸術と、その正反対の民衆美術、大都会の喧騒と自然と中世の小道の両方が比較できるから。



2018年1月5日金曜日

バジリカータ:マテーラ

バジリカータ州で圧倒的に有名なのは間違いなくマテーラです。

イタリアは世界文化遺産登録数世界一の国ですが、文化遺産というのは、自然遺産や歴史遺産に対して、主に芸術的な要素の強いもので建築物が中心です。例えば自然遺産は文字通り、天然の自然の風景が独特でよく保存されているというもので、日本は必死に富士山を登録しました。歴史遺産というものは、忘れてはならない歴史という意味を込め、必ずしも見て楽しいものではありません。ユダヤ人を閉じ込めたゲットーやナチのアウシュビッツ、日本の原爆ドームなどが典型的な例です。

マテーラの場合、イタリアでは珍しく、芸術、文化というより、自然と歴史的価値が認められたと言えます。

マテーラの洞窟住居と洞窟教会と日本では言うようですが、イタリアでは Sassi サッシと言います。


遠方から中心方向を撮影

サッシとは小粒の石の複数形で、ほとんど砂に近い意味です。バジリカータ州は交通の不便な場所で、現在はローカル電車で怪しい地下のマテーラ駅に着きます。一人とか夜だと絶対怖い感じです。焦って地上へ出ると、そこはだだっ広い田舎街です。サッシ地区へ歩いて行く途中には普通のイタリアの街並みがありますが、ある場所から突然サッシ地区に入ります。すると風景は一変し、写真のようなどこを見ても同じ色でできた絵のような風景が出現します。絵のようなと言っても色々な絵がありますが、例えば、リグーリア海岸沿いやブラーノ島で見るような、カラフルで明るい絵ではなく、殺伐とした、そこ知れぬ力を感じる、そんな風景です。


しかし、芸術的な写真とか抽象絵画を製作したくなるような、やはり独特の美しさです。サッシ地区は結構広く、普通のツアーではバスで近くに降り、一番有名な洞窟聖堂へ入って終わり、と言うのが一般的ですが、本当はせめて一泊し、町中をぐるぐる回ってみたいものです。洞窟聖堂はたくさんあり、年代や、フレスコの描き方、建築の仕方に時代や様式の差が随分とあります。


Madonna de Idris

一番有名な聖堂は写真のもので、岩の頂点に十字架が屹立している感じがいかにも感動的で、どうしても行きたくなります。中も結構フレスコが残っていて時間がなければこれ一つでも仕方ないでしょう。でも私の「マテーラ石像聖堂」と言う本には何十もの聖堂が紹介されていて、区域別に数日滞在しなければ見られない印象を受けます。


Peccato Originale

8〜10世紀に作られた「原罪」聖堂のフレスコです。色々な様式がある中で、私には一番印象的で、ギリシャからイコノクラスムを逃げてきた修道士たちが残した、平面的で装飾的、抽象的な伝統を感じさせます。自然を無視した可愛いお花、どうなってるのかわからない被り物や衣装など、ルネサンスやバロックには見られない、とても大らかなフレスコです。


San Pietro Barisano

この聖堂のように、入り口ファサードだけは結構普通の建造物のように作ってあるところも数箇所あります。中は洞窟を掘って作ったもので、地上に建てていく建築物とは全く違います。普段歩かない人には、マテーラは凹凸だらけですから息を切らしながら、歩くことになるかも知れません。この聖堂は、岩の頂点の十字架を目指して曲がりながら登っていく途中、いきなり現れるのですが、シンプルな中にもデザイン性のある南部バロック様式の純粋なファサードに、強い印象を受けました。

マテーラではどれを一つと数えたらいいか分かりませんが、穴は無数に穿たれているので、洞穴のような聖堂も100個どころではありません。どうやってたどり着いたか、理解しかねる場所にある洞窟にフレスコの跡があると、孤高の修道士の姿を浮かべます。どれほど貧しかったか、想像を絶するものがあるでしょう。それでも現在の貧しい人々より、彼らは幸せだったかも知れません。貧しさは天へ近づく印だったのだから。

旅の話:マテーラへ行くんなら絶対一泊します。すっかり綺麗になっていますが、洞窟住居ホテルがあるので、サッシのど真ん中で、数々の映画のシーンを思い浮かべながら(マテーラは何度も映画の舞台になっています。去年撮影された「ワンダーウーマン」でも使われたし、「パーソンズ・オブ・インタレスト」で有名になったジム・カヴィーゼルがイエスの最後の24時間を演じた「パッション」、リメイクがたくさんある「ベンハー」、日本では知られていませんが、「ニュー・シネマ・パラダイス」の監督も好んでここを使っているなど、イタリア映画には数本あります。)不思議な街の歴史(今回は書きませんでしたが、ここは近代に随分と変化があった街です)に思いを馳せながら、時には頭を空っぽにしたりもしてゆっくり村を巡るのです。美味しいレストランも知ってるしね。



2018年1月2日火曜日

サルデーニャ:ログドーロのロマネスク聖堂たち

Logudoro=ログドーロという発音もやはり特徴があり、サルデーニャならではの響きを感じさせます。

サルデーニャ島は、格安航空が一般化する以前は、イタリアの富裕層の避暑地として有名でした。エメラルド海岸以外にも、海の底のそこまで見える、本当に空を映した、これぞ青色の海が売り物だからです。

でも私にとっては、他では見られないロマネスク聖堂が目的です。ヌラーゲで示した通り島の歴史は非常に古いものですが、古代ローマに征服された後、島が活気を取り戻すには時間がかかりました。中世真っ只中の千年を超した頃、ヨーロッパ中の覚醒と共に島も繁栄します。地中海のハブ地として最適だったからです。地中海の覇権を争っていたピサとジェノヴァ人たちはこぞってやって来ました。商人、兵士、聖職者らが自らの属する文化を持ち込んだので、この頃サルデーニャに建てられたロマネスク聖堂を、何処の、何様式と断定するのは至難の技です。

兵士や商人の痕跡はほとんど分からなくなりましたが、聖職者たちの文化は聖堂という形で、今に伝わっています。それどころか、彼らが建立した建造物では現在もミサが挙げられ、結婚や洗礼式が祝われています。私は、西洋文化を知れば知るほど、宗教の持つ力を痛感させられます。戦争や商業活動も常に存在しますが、それは動物的な欲望と繋がったもの。それに対して宗教は、人間ならではの精神、思考、情緒といったものと繋がっています。宗教によって戦争になるという人がいますが、もっと深く考えれば、必ずその背景には政治や金銭的な問題が潜んでいるのです。上昇志向の異常に強い人で、何でもいいからのし上がりたい人が、宗教を利用することは頻繁にありますから、一見判断しにくく、騙されてしまうのです。

一千年ころのキリスト教聖堂、特に現在そこに集う人は、そういった思惑とは全く無関係です。そこでは癒しの力が働きます。サルデーニャのロマネスク聖堂は、どれも巨大で壮麗なローマや、バロックの聖堂とはかけ離れたものです。建っている場所自体が、非常に行きにくく、一般の旅行者にはまず回れない場所にあります。だからこそ、旅行者でごった返すフィレンツェやヴェネツィアの聖堂には無い、本来の姿を感じることができるのです。


Santissima Trinita` di Saccargia


私はこの聖堂へたどり着くのに、滅多に来ないバスに乗り、駅のない所で無理やり降ろしてもらい、帰りはそこで出会ったドイツ人夫婦の車で帰りました。私たちの他には誰もいませんでしたから、もし誰もいなかったらどうすんだという話ですが、私はそういう旅を散々やっているので平気です。特に最近は携帯があるので、以前のように気合はいらなくなりました。ところで今調べていたら、日本のツアーを見つけました。サルデーニャ周遊7日間で60万近くしました。もちろん私の旅とはホテルの格が違うのでしょうし、全てバスで移動します。でもそれ程なかなかいける場所ではないのが分かってもらえたでしょうか。私の旅は半額で、まともな解説付き(イヤホンは考え中)ですから、どんなに頑張っているか、分かって欲しいっ!つい、感情を吐露してしまいました😅

この夢のような白黒の縞模様の聖堂は、ピサの郊外にある聖堂と非常に似た工芸的な技術(上図)が使われています。フレスコの残る内部や回廊跡も感動的で、私の行った時には教会守りが飼っているのか、迷い猫が堂内でくつろいでいて絵のようでした。


Sant'Antico di Bisarcio

この聖堂の良さが分かる!という人はかなりの通です。10世紀半ばに造られた、ピサとフランスの色濃いロマネスク様式です。私は告白すると、サルデーニャの街はあちこち行っていますが、これらロマネスク聖堂は先に書いたサッカルジャしか訪れていません。皆離れた野原のど真ん中にポツンと建っているので、一人で行くには貧乏な私には辛いからです(涙)。確かにサルデーニャのロマネスク聖堂を尋ねる旅は、お金も時間も必要です。


La Nostra Signora di Tergu

モンテカッシーノからやって来た修道士たちの聖堂跡に建立されたこの聖堂は、独創的なファサードを持っています。石の色が他より濃い茶色で、それを生かした白の配色と繊細なバラ窓の透かし彫りや、捻れた細い柱など、非常にデザイン性が高く、美術好きには喫水の聖堂です。うわぁ〜見たいよーっ!!サッカルジャと異なり、ミサに使われる生きた聖堂でもありそこも魅力です。


La Nostra Signora di Castro

やー、またまたぽつねんとしています。この聖堂も地域の儀式で活躍する生きた聖堂です。豪華極まりないフィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレが死んでから何年も経つというのに、こんなに小さな可愛い聖堂がいまだに現役です。ロンバルディア地方の特色が見られる12世紀の聖堂です。この写真ではわかりませんが、聖堂は湖沿いの丘の上にあり、映画のような美しさです。映画も色々ありますが、南欧の田舎のゆったりした風景が出てくる理想郷みたいな映画です。


San Pietro

島の、主に北部にはまだまだたくさんのロマネスク聖堂が散らばっていて、それが皆独自のスタイルを持ち、似ていない事が面白く、歴史を表しています。

もし「イタリア:歴史と美術の旅2018」でサルデーニャに行くことになれば、島だけに絞ります。今回は小さな聖堂の話を書きましたが、勿論街には大きな聖堂もあるし、博物館や、島独自の文化が至る所で見られるから。

2018年1月1日月曜日

カンパーニア:ナポリ、サンセヴェーロ聖堂博物館

年の初っ端に、私の知る限り、空前絶後の技量を表した彫刻を誇る場所から始めます。

ナポリは、スパッカナポリと言う街の心臓部に当たる古い地区にある小さな礼拝堂で、以前は入り口が分かり辛く、ナポリの喧騒にまぎれてうろうろする人が多かったのですが、最近この聖堂を博物館と位置付け、道まで整備しました。昔から知る者としてはちょっと残念です。隠れた物凄いものだったのに・・。

聖セヴェーロ聖堂には二つの傑出した見るべきものがあります。一つはバロック芸術の極限を示す、超絶技巧の極値を争ったような彫刻群、中でも、ヴェールを被せられた死せるキリストの横臥像は、美術史上、非常に名高い作品です。ジュゼッペ・サンマルティーノと名前からして南部らしい(聖マルタンの聖ヨセフ)彫刻家は、地元ナポリの芸術家です。他にももちろん作品はありますが、なんといってもこの作品が代表作で、どんな美術書にも載っています。(載っていない本はバロックや彫刻を扱っていないか、よほど薄いものでしょう)彼のキリストを取り囲むように、サングロ家の一族のお墓のために、様々な擬人像が、あっと驚く技巧で配置され、礼拝堂全体が舞台のようです。これぞバロックです。


イエスの身体、寝台、豪華な敷物など全てが白い大理石ですが、恐るべきはヴェールを通して透ける主イエスの御顔です。あまりの美しさに心を奪われます。


中心がサンマルティーノの名高い作品で、あまりに彼の作品が素晴らしいので周囲の作品は軽んじられていますが、一つ一つ見れば、どれも凄まじいのに気付きます。


呆れた凄さです。大理石のひき網です。網に気を取られて、天使の美しさや全体の空間、複雑な擬人像の意味など忘れてしまいます。

この空間は、ある意味でバロック彫刻空間の頂点をなすものでしょう。ローマのベルニーニによる壮大な初期バロックとは違った、より個人的で趣向を凝らした後期バロックの頂点です。

この礼拝堂を所有していたサングロ家の最後の人物は、不気味な謎の人物として後世にその名を残しました。何しろこの礼拝堂の地下には、究極の解剖学の人体モデルがあり、それには実際の血管などが使用されていると言うもっぱらの噂だからです。解剖学ではフィレンツェにも、内臓を露出したヴィーナスなど、恐るべき模型が多数存在します。でもここにあるのは身の毛もよだつもので、ライモンド・ディ・サングロは発明家、錬金術師、科学者、解剖学者、イタリア語学者、秘教主義者、フリーメーソンの重要人物であり、どこまでが本当か分からない話が伝わっています。サングロなんて血(イタリア語で血はサングエ)を連想させます。


これは礼拝堂の彫刻の一つで、ライモンドの像だと言われています。ひねくれた人だったのは確かです。この礼拝堂に財産をつぎ込むだけでなく、自らの実験室にも湯水のごとくお金をつぎ込み、ナポリ湾を滑走する馬車などの様々な物を思いつき、出版しました。当然経済は逼迫したものの、礼拝堂は仕上がり、自らの命も、実験で吸い込んだガスが元凶で尽きようとしていたのでした。あんな凄いものを残してくれて感謝します。

で二番目に見るべきものとは、全然見たくないけど彼の研究から生まれた人体モデルです。あまりに怖くて写真はアップしませんが、怖いもの見たさの人は、museo della cappella Sansevero とか Raimondo de Sangro で検索してください。よろしく。




Buon Anno! 明けましておめでとうございます

毎年、年末年始も本とコンピューターにまみれています。

楽しみの年末ボクシングは、内山が引退してしまったので少し寂しかったけれど、その分田口が頑張ってくれました。私も根性出して、今年はイタリア美術と歴史の旅を復活させます。とんでもなくマイナーなものも含め、日本語では読めない、南イタリア情報あげまくるので、興味のある人はぜひ読んでやって下さい。

旅行に興味のある人は1月の集まりよろしくー💞



写真は南イタリアではなく、愛するルッカの街角聖母子。
イエスの後ろ姿が可愛くて大好きです。

講師を初めた頃より、当然ですがずっと詳しくなりました。こんなに続けられたのも、安くない授業料を払って受講し続けてくださる人々のおかげです。本当に感謝しています。もっともっと良いボクシングでなく、授業できるようにばんがるので、どうぞよろしくお願いします。